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2008年05月25日

オフラインnewsing Vol.2後録 多様性でいこう


5月16日に開催されたオフラインnewsing『日本のニュースサイトはなぜつまらないのか』にて、ライブドア執行役員の田端氏とアメーバニュース編集責任者の中川氏とともにトークセッションに登壇させていただきました。

今回は自社のメンバーが企画した場にホスト兼ゲストの形で登壇する場だったことから立ち位置が不明瞭で、自分自身少しどっちつかずなプレゼンスを出す形になってしまったことを反省しています。

事後に多くの参加者の方々がブログやニュースで言及くださっていますのでセッションの内容についてはそちらにお譲りして、ここでは自分の問題意識と話し切れなかったことをつらつらと書き連ねたいと思います。

※内容まとめはこちらが秀逸かと↓
第2回オフラインnewsingをオンラインで観ました。 | 世界を巡るFool on the web | あすなろBLOG

※映像はKNN神田さんが編集くださったものがおすすめ↓
KandaNewsNetwork: 第二回オフラインnewsingに参加してきました


今回の「日本のニュースサイトはなぜつまらないのか」というテーマ設定については、現在様々なニュースサイトを運営なさっている方々には本当に失礼な文言になっていたと思います。気分を悪くされた方にはどうかご容赦いただきたいです。「芸風」と評してくださっている方もいますが、基本的に「素」なのであるがままでご覧いただければと思います。

今回のテーマに至った問題意識として、「今のニュースサイトはウェブ本来の価値を活かせているのだろうか?」というものが私の中に元来あります。ウェブ本来の価値とはなんぞや、と話し始めると何日あっても足りませんので、ここでは「ニュースサイト」に関連する本来価値に焦点を当ててみます。その価値とは「多様性」と「ユーザー参加」だと思っています。

「ユーザー参加」についてはこのブログでもずっと書き連ねていることなので「多様性」のことを。

「日本のニュースサイト」には多様性が欠けているように感じています。否、もちろん個々の事業者が行っている施策で個々にカバーできている領域もあるかも知れません。ですが言論・報道全体として、メディア側が発信するものに色と深みがないのではないか、と感じています。

国民総中流、総中道の社会になって久しい今の日本では、若干でも偏りのある言論や報道がなされるとそれだけで周囲の中道が糾弾、揶揄して叩き潰すような状況です。ある意味では報道機関自らが自らの手で報道の自由を叩き潰して行っているのだと思います。

元来にして言論・報道というものは、その情報の摂取を通じた刺激が一般の人々にとっての思考のきっかけとなり、材料になるものだと思います。そこで偏りのない言論・報道しか摂取できない状態が続くと、思考というものにそれほどの時間を割かない普通の生活をする人々にとっては一律の価値基準、しかも浅めの価値基準のみが植えつけられ、それがまた下の世代へ教育として浸透し、民族全体としての白痴化が進む。

「自分で考える」なんてかっこいいことを言う人もいるが、人類は脈々と先達からの教えを受け継いで思考を進化させてきている。ソクラテス→プラトン→アリストテレスみたいなものだ。その進化のための思考のはしくれになるのが論壇における言論であったり、市井の声や興味を反映した報道であったりするのだと思う。現代の報道メディアはその「進化の思考」にドライブをかけることを宿命付けられているのに、そのミッションを忘れて、経済原理や権益保守のほうに頭を取られすぎていないか、と。

思考というもののアウトプットになるのは行動もしくは価値観だと思います。価値観という言葉はあいまいなものなので、再現性ある状態にしようとすると「判断のための価値基準」ということになるかと思います。人の思考というのは右に振れて、左に振れて、あちこちに振れながらその振れ幅が広ければ広いほどより精緻な価値基準に落ちていくものだと思います。

その「振れ」は往々にして「危険」と呼ばれるもの、行動レベルで社会的に受容されにくい姿(ex:宗教とかゲイとか)になることもあるために、社会やムラのルールを定める上ではその「振れ」が起こらないように制御されていきます。振れが減るだけならまだよいのですが、思考は幅広い振れがあることによってその深度が形成されるものであるために、思考の振れが減る環境にあると浅薄な思考や思考停止に至りがちなのだと思います。今の日本です。

判断の価値基準というのは一定の考え方や行動様式、能力を持つ人々の「集まり」の中で、その判断を下したときによりよい結果に導かれる、というものだと思います。その「集まり」というものがウェブではコミュニティと呼ばれたり一般社会ではムラと呼ばれたり会社と呼ばれたりもするわけです。ある判断の価値基準を持つと、それはそれなりに普遍的なものであるがゆえにわざわざその価値基準を変化させようとは思わないのが人の常です。

で、そうなるとその「同じ価値基準を持つ集まり」自体がその外側にあるメタ社会の中での競争原理であったりコミュニティライフサイクルの波であったりの中で栄え、費えていくことになるのです。その構成員の意思や平均余命に関わらず。

要は日本という国が経済とはまた別のサイクルに拠る「価値基準の固定化」という民度のサイクルのようなもののピークを過ぎて下降線に入っているのではないですか、それはメディアが一様化しているためであり、その逃げ場所になっていたインターネットがそのカウンターパートとして成立すべきところでまったくそうなれていないのではないですか、というのが問題意識であり自分自身へも自問しているところなわけです。

ウェブにはたくさんの「ありえない」と思えるような考え方や思想、価値基準たちがあふれています。ただそれらが人の目につくためのしかるべき訓練、信頼性、経済性を身につけているわけではない。そこに訓練・加工や信頼性や経済性のカバーをしていくことが一つできることではないだろうか。

人の価値基準というものはそう簡単に変わるものではなく、自分はそういう認知科学を学んだわけではないけれども、体感的には少なくとも時間、権威、場の空気というものに影響されるものだと感じている。「権威」という語は見た瞬間反吐が出そうなところだが、リアルに存在してかつ価値創造にも寄与する(すべき)ものなのだから仕方がない。

で、価値基準が固定化されてしまい、かつ下降カーブに入ってしまった日本の人々に再度成長カーブを一緒に作っていきましょう、という気持ちになってもらうには、多様な価値観をインターネット側から、時間・権威・場の空気などは活用しきって、カタチにしていくこと、人に認知できる、認知しやすい、刺激を受けやすいカタチでお伝えしていくことが必要なのだろう、と思います。


追記: 上記において「ブログ」というものの存在がほぼ無視されているのは、一旦「ニュースサイト」というもののみの掘り下げをするためです。ブログは視点の多様性を担保してくれる素晴らしいメディアだと思うけど、これもまた「プロ論」という経済原理側との確執と、「クオリティ論」というスパムや一般社会通念との闘いがある。

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